微熱

彼は縋りつくように彼女を抱きしめていた。壁に押し付けるようにしてようやく掴まえた彼女を手放すもんかと、ぎゅうぎゅうと腕に力を込めて。

今にも泣き出しそうな顔の彼とは反対に、彼女は無表情だった。



「どうしたら好きになってくれる? もっと背が高くなればいい? もっと年をとればいい? おまえはあいつが優しいから好きだというけど、あいつには別のやつがいるじゃないか。俺じゃだめなの? 俺だって優しくしてるじゃないか」

「――おまえのどこが優しいんだよ。それにあいつのことなんていつ好きって言った? しょうもないことばっかり言うなよ」

「しょうもない? だっておまえは、いつまでたっても俺を見てくれないじゃないか。俺はもうどうしたらいいんだよ」

「そんなのおまえ一人で解決すればいい。訊かれたってわかんねーし、そんなこと考えたくもない。好きになんてなんなくたって、おまえがいなくなるわけじゃないだろ? だったらわたしは今のままでいいんだ。変わってしまうのはいやだ」

「・・・・・・そういうことを言うなよ」



彼は諦めたように腕の力を緩めた。しかし、いつもなら途端に逃げ出す彼女は、そのことに気づいていないように動かなかった。



「変わりたくないんだ。おまえはそうじゃないの? どんな風に変化するかなんてわからないのに、どうして今のままじゃいけないんだ?」

「『今』は、そんなにいい?」

「・・・・・・だって、こんな風になれるなんて思ってなかったんだ。ずっとあいつと一緒で、あいつだけと一緒で、だから今みたいに、自分の存在を知ってもらえるなんて思ってなかった。わたしにはこれ以上の幸せなんてない」



それは彼も知っている。彼女のそれまでを、やっと知ることができた。ずっと誰にも存在すら知られずに生きてきた。だから彼女にとって、今は確かに幸せなのだろう。

けれど、彼の――いや、大多数の人間にとって、彼女の幸せは「その程度」に過ぎない。それでは彼には満足できない。その程度で彼女に満足されては困るのだ。

もっと欲張ってもいいのに。そう思いながら、彼はとうとう腕を解いた。それでやっと気づいたように、彼女は慌てて彼から離れた。

そして彼も気づいた。彼女の顔が赤くなっていたことに。

彼女の変化に。



少しずつ少しずつ。彼の努力が、彼女の心の奥の方を変えていっていた。

アルファベットで26のお題 (2012/5/28 再アップ)

2006/8/23

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